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タグ「アイルトン・セナ」 の検索結果(1/1)

2007年5月 1日

アイルトン・セナ・ダ・シルバ

アイルトン・セナ・ダ・シルバ

5月1日、ブラジルでは「交通安全の日」に制定されているそうです。
そうです、『音速の貴公子』が、伝説となった日です。

ヒーローは死なない…。

そんな子供のような幻想が、ガラガラと音を立てて崩れていったあの日。

普段と同じようにF1中継を観ようとTVを付けていたら…。
中継の直前のニュースで、セナが事故で重体だという情報が流れた。

F1中継の冒頭から、解説陣の三宅アナ、今宮さん、川井ちゃんの三人の
沈痛な表情でセナの事故に付いて必死に語っていた…。
三宅アナ、今宮さんは涙で目を真っ赤にして感情を抑えることができず
なかなか言葉が、出てこない。川井ちゃんも唇をグッと噛みしめてる…。

あの異常な雰囲気の中継から、もう13年です。
まさに呪われた週末…。

カーボンモノコックの強度の高さからF1で死亡事故なんて起きないなんて
言われてたにも関わらず、ルーベンス・バリチェロが大クラッシュで鼻の骨を
骨折する大怪我、翌日にはローランド・ラッツェンバーガーが事故死。
そして、さらに偉大なドライバーが天国へ召されました。

大好きなヒーローが他界したことを、受け入れることができずに
心の底に広がっている果てしない虚しさや空虚感から…。
その後、数年間のしばらくの間、F1中継が観れなくなってしまいました。

もちろんヒーローには、アンチが付きもので…。
セナのことを「日本のマスコミの造った虚像だ」なんて言いますが、
本当にそうでしょうか?

最強王者と言われた、ミハエル・シューマッハが 2000年のイタリアGPで
勝ってセナの通算41勝の記録に並んだ時の、優勝インタビューで感極まって
「カートに乗っていた頃からセナは僕のアイドルだった」と涙しました。
公の場で涙することの無かったシューマッハだけに驚きました。

きっと姿の見えないセナの背中を必死に追いかけていたのでしょう…。
サイボーグだなんて言われていたけど、プレッシャーは凄かったのでしょう。

2002年の走行中の琢磨の横から、ニック・ハイドフェルドがスピンして滑って
突っ込んできて激しいクラッシュ。2台ともコースアウトして、
ヘリコプターで医療機関に運ばれてから容態が発表されるまでの時間は、
どれだけ不安な気持ちになった事か…。

二度とあのような、辛く悲しい事故は起こって欲しくないものです。


アイルトン・セナ 永遠に…。


どこか脆さも併せ持っていた一方で、最後まで諦めない強い信念を持って、
勝ちにこだわったアイルトン・セナの生きざまから多くのことを学んだ…。
最後の事故のシーンでも、最後の最後まで諦めることなくマシンの体勢を
整える努力をしていたとか…。

やっぱり、ヒーローは死なない。
永遠のヒーローの姿は、心に深く刻まれてまだ生き続けています。


§過去のアイルトン・セナ関連のエントリ

セナの思い出…。[2005-06-03]
セナ裁判に終止符…。[2005-06-01]

2005年6月 3日

セナの思い出…。

1994年のサンマリノGPはホントに呪われたGPじゃったと思う。
予選初日にバリチェロがクラッシュして大怪我。
予選2日目でもラッツェンバーガーが事故死。
決勝のスタート直後にも多重クラッシュして飛び散ったパーツで観客にも怪我。
オフィシャルは何故あの時レースを止めてしまわなかったのか、思い出しても
悔しいです。あの日の朝に恋人に「今日は走りたくない」ともらしている、セナ
には不吉な予感がしていたのかもしれない。

中継前のプロ野球ニュースでセナの事故が伝えられて、番組冒頭から今宮さ
んも、三宅アナも号泣してのレポート。異様な雰囲気の中継でした、まさに悪
夢です。

わいも、いつの間にかあの時のセナよりも歳をとってしまったけど…。

1988年:鈴鹿
スタートで痛恨のエンストをしたけども、鬼の走りで猛烈な追い上げで念願の
涙の初タイトル。
1989年:鈴鹿
結局押しかけ&シケイン不通過で失格となったがプロストとの接触後も諦め
ずにプッシュしてナニーニをオーバーテイクして一位でチェッカーを受けた。
わずかな望みを捨てない姿勢に感動しました。
1990年:フェニックス
フェニックスでの当時の新鋭アレジとの激しいストリートバトル。
1991年:サンパウロ
悲願の母国GP初優勝。ギアボックスのトラブルで6速のみでの走行。
歓喜のあまり号泣しながらのファイナルラップ。
その時サンパウロの空からも大粒の雨が。思わずもらい泣きしてしまった。
1992年:モナコ
マンセルとの壮絶バトル。明らかに速さで上回るマンセルの猛追を何度も
何度もブロックしてみせた。セナに集中力の凄さを感じた。
1993年:ドニントン
「雨のセナ」と最速を印象付けた感動のオープニングラップ。とんでも無い
ものを目にした衝撃的な一周でした。
1994年:英田
パシフィックGPで生で見た最後のセナのスーパーラップ。

レース以外でも本田宗一郎氏との友情、「生ダラ」でのカートバトル…。

チョット振りかえって見ただけでも数々の名場面が脳裏によみがえってくる。
まだまだいくらも出てくる、うのたくさんだけじゃなくて、
やっぱり わいのなかでも間違いなく今でもセナは生きているわ。(きっぱり !! )

セナ愛用の初期型キャップ

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余談じゃけど 88年の鈴鹿ではロータスの中嶋もスタートでエンストこいた(笑)
しかし奇跡的に再始動したHONDAターボエンジンをかって最後尾から猛烈に
追い上げて、雨の降るなかでセナをも上回るラップであとチョットで入賞の7位
でフィニッシュした姿にも感動した。まさに「雨の中嶋」って感じじゃったわ。
数日前に母親が他界しているが、レース後のインタビューで「おふくろが後ろか
ら押してくれたのかも」ってコメントは泣かせてくれました。鈴鹿からの帰りの車
中で中継をみながら再度感動しました。タラレバは禁物ですがスタートを失敗し
ていなければアグリより先に表彰台に上がってたのではないかと思ってる。
何にしてもドラマチックな週末でした。

2005年6月 1日

セナ裁判に終止符…。

中嶋悟のフル参戦で TV中継がはじまり、何気なく中継を見る程度だっ
た自分が友人に誘われて1987年の鈴鹿にF1観戦に付いて行った。
圧倒的なエキゾーストサウンドにやられ翌年から大のF1好きになって
しまい毎年のように鈴鹿サーキット(及び TIサーキット)に通った。
そしてキレた走りでとびきり速くて不利な状況からでも劇的なレース
展開で勝利をものにするアイルトン・セナをブラウン管や雑誌を通し
て知ることになった。まわりとのトラブルの話も断える事は無かった
けど、それ以上に「セナ足」の言葉に代表される、神がかり的なドラ
イビングテクニックと、反面どこか悲壮感の漂う晩年の姿に魅了され
た。最初の中嶋悟のパートナーでもありチームを変わってもホンダと
の友情は続き、日本での人気は絶大なものがあった。

第二期ホンダのF1撤退後も非力な型落ちフォードエンジンで5度も優勝
してみせた。特に印象的なのがドニントンで行われた雨のヨーロッパGP。
とにかく雨のセナは速かった。他のレーサとは違う異次元のスピード
を持っていた。オープニングラップで4台ものマシンをパスしてしまっ
た。シューマッハやプロストを芸術的なラインでゴボウ抜きしていく
シーンには感動を覚えました。この先何年もライバル達と激しいバトル
が繰り広げられ、ファンを楽しませてくれる事と疑いもなく思ってた。
伝説になった音速の貴公子

しかし翌年ウィリアムズチームに移籍しサンマリノGPで音速の貴公子は
伝説となった。それ移行はあんなに大好きだったF1を見るのが辛くて
何年もの間 F1から離れてしまった。

長きにわたって行なわれてきたアイルトン・セナの事故死に関する裁判
がようやく終わりを迎えた。あまりにも時間が経過しすぎたことによって
ウィリアムズの関係者に対する殺人罪は退けられたと発表があった。

セナ裁判に終止符 ウィリアムズ関係者に無罪判決

結局は単なるレーシングアクシデントだったと言うことなのか?
たとえどんな判決がでたとしても、どんなに悲しんでもセナは帰ってこない。
しかし相変わらずウィリアムズのドライバーをパーツとしてしか扱わない
姿勢には釈然としないし、許すことができない !!


そしてわいは、長女に「強い信念を持って生きてほしい。」
「世界中の人達から愛される人になってほしい。」
そんな願いを込めてヒーローから「せな」と名前をつけました。
判決の日に6歳の誕生日を迎えた幼い彼女はまだ自分の名前の由来は知りません。
でも自転車に乗ってもスキーに行っても、しっかり暴走娘でスピード狂です。 (笑)