
中嶋悟のフル参戦で TV中継がはじまり、何気なく中継を見る程度だっ
た自分が友人に誘われて1987年の鈴鹿にF1観戦に付いて行った。
圧倒的なエキゾーストサウンドにやられ翌年から大のF1好きになって
しまい毎年のように鈴鹿サーキット(及び TIサーキット)に通った。
そしてキレた走りでとびきり速くて不利な状況からでも劇的なレース
展開で勝利をものにするアイルトン・セナをブラウン管や雑誌を通し
て知ることになった。まわりとのトラブルの話も断える事は無かった
けど、それ以上に「セナ足」の言葉に代表される、神がかり的なドラ
イビングテクニックと、反面どこか悲壮感の漂う晩年の姿に魅了され
た。最初の中嶋悟のパートナーでもありチームを変わってもホンダと
の友情は続き、日本での人気は絶大なものがあった。
第二期ホンダのF1撤退後も非力な型落ちフォードエンジンで5度も優勝
してみせた。特に印象的なのがドニントンで行われた雨のヨーロッパGP。
とにかく雨のセナは速かった。他のレーサとは違う異次元のスピード
を持っていた。オープニングラップで4台ものマシンをパスしてしまっ
た。シューマッハやプロストを芸術的なラインでゴボウ抜きしていく
シーンには感動を覚えました。この先何年もライバル達と激しいバトル
が繰り広げられ、ファンを楽しませてくれる事と疑いもなく思ってた。
<画像:伝説になった音速の貴公子>
しかし翌年ウィリアムズチームに移籍しサンマリノGPで音速の貴公子は
伝説となった。それ移行はあんなに大好きだったF1を見るのが辛くて
何年もの間 F1から離れてしまった。
長きにわたって行なわれてきたアイルトン・セナの事故死に関する裁判
がようやく終わりを迎えた。あまりにも時間が経過しすぎたことによって
ウィリアムズの関係者に対する殺人罪は退けられたと発表があった。
結局は単なるレーシングアクシデントだったと言うことなのか?
たとえどんな判決がでたとしても、どんなに悲しんでもセナは帰ってこない。
しかし相変わらずウィリアムズのドライバーをパーツとしてしか扱わない
姿勢には釈然としないし、許すことができない !!
そしてわいは、長女に「強い信念を持って生きてほしい。」
「世界中の人達から愛される人になってほしい。」
そんな願いを込めてヒーローから「せな」と名前をつけました。
判決の日に6歳の誕生日を迎えた幼い彼女はまだ自分の名前の由来は知りません。
でも自転車に乗ってもスキーに行っても、しっかり暴走娘でスピード狂です。 (笑)

